2019年8月「資本論まなぶ会」の報告

 8月17日の2時から、住道サーティーホール・公民館で「資本論まなぶ会」を行いました。6月と7月は参議院選挙の都合でお休みしましたので、久しぶりでした。数人の参加者の中に、選挙のポスターを見て、Sさんの立候補に気付いたという方がおられました。「もう少し票が伸びればよかった、残念でしたね」という感想を漏らしておられました。

 今月のテーマは第3章「貨幣または商品流通」の、第2節「流通手段」の、(b)「貨幣の流通」ですが、「学ぶ会」を二か月休んだことで、これまでの復習をしました。第1章の商品、第2章の交換過程、そして第3章の「貨幣または商品流通」の、第1節の価値の尺度、そして第2節の流通過程の(a)商品の変態が取り上げられました。

 商品とは何か、貨幣とは何かという問題について、順番に考えて行こうとする、要点を記した文書がレポーターから提出されました。約1時間の報告があった後、出てきた疑問は第2章の「交換過程」の第8パラグラフの次の文でした。「商品交換は共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で始まる」とマルクスはいいます。意味は何かというものでした。これに対して、昔、大家族や共同体で余った生産物を、隣の共同体や大家族と交換し合うことを想定しているのではないか、という返答がありました。現代の都会で生活していると、想定しづらいですが、今でも大地震や大災害があって、日常生活が破壊された直後に、一種の共同体が出来て、これに近いことが行われるのではないでしょうか。

 本題の「(b)貨幣の流通」に進みました。ここで問題になっているのは、市場において色々な物(例えばリンネル、小麦、聖書、ウイスキーなど)が、商品として売り買いされますが、その時、商品としての動きが、貨幣の動きにどう反映されるのかというということです。

 具体的に議論になった点は、第一パラグラフで言われている「商品の運動は循環である」という意味は何か?他方で「貨幣の循環は排除」され「貨幣は絶えず出発点から遠ざかる」と言うのはどういう意味か?でした。これに対して、ここで想定されていることを具体的に考えてみようということになりました。例えばリンネルの生産者が、それを商品として市場に持参します。そのリンネルが売れて手にした貨幣を以って、今度は、商品として売りに出されている聖書を、出版社から購入するとします。この時、リンネル生産者は商品を売りに出し、再び(聖書という)商品を手に入れるのですが、この点を指して「商品の運動は循環である」というのでしょう。

 次に、リンネル生産者が、リンネルを商品として売り、手に入れた貨幣について考えてみます。それは、もともとは小麦生産者が、小麦を商品として売りに出し、それが売れて得た貨幣でした。その貨幣を以って小麦生産者は、売りに出されているリンネルを手に入れたのです。その貨幣が今度は、リンネル生産者から、聖書出版社の手に渡されるのです。こうした貨幣の動きを見るなら「貨幣は出発点から遠ざかる」と言えます。

 第2パラグラフに「商品はいつでも売り手の側に立ち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側に立っている」という文があります。この「購買手段」とは何か、どんな規定がなされているのかという疑問が出されました。「購買」を単に「買う」と見なしていいのか、ハッキリしない点がありました。仮に「買う」という意味だとするなら「(a)商品の変態」の第5パラグラフで、マルクスは次のように言います。「商品変態の諸契機は、同時に、商品所持者の諸取引であり、売り、すなわち商品の貨幣との交換であり、買い、すなわち貨幣の商品との交換であり、そして両行為の統一、すなわち買うための売りである」。貨幣の商品との交換が「買い」であり、これを以て「購買」というのだと思われます。後でマル・エン全集の索引を調べてみましたが、そこには「売り」や「買い」の項目はなく「購買と販売」があるだけでした。余り細かく考えないでいいでしょう。

 次回は9月21日の2時から、住道サーティーホールで行います。テーマは「b貨幣流通」第4パラグラフからです。商品流通が貨幣流通に与える様子の解明に引き続き、流通する貨幣の量は幾らかという問題や、それに商品の価格は流通手段の量によって決まるかに言う、俗説の批判が課題です。